えーっと、、、8月以来?お久しぶりです管理人じゅごんですこんばんわ。
まさかの土曜更新で読んでくれる人が少ないんじゃないかという不安にかられながら書いてます;
先週担当のTrpのリラックマお兄さん(笑)がちらっと書いてますが、実は先週から土曜にも合奏練習が入りました。本番が近いって感じですね。いや、「感じ」じゃなくて事実近い;本番まであと3週間ですねヤバいですね;(いつも本番前はヤバいって言ってるねじゅごんね;)
土曜は学校があったりお仕事があったり、日曜に比べると予定がつきづらく、今日は人数が少なかったです。10人はいたのかな?ってくらい。数年前の彩楽の日曜練習ってこんな状況結構あったよね。みんな参加率上がったよねーホント。
ですが少人数だからこそできることや分かることがあるので、参加者は実に有意義な時間になったのではないかと思います。
私もいつもの合奏だとあまりじっくり見てもらえず「これでいいのかな」と思うことが多いのですが、今日は他のパートとの合わせや音程、音の切り方など色々言ってもらえました。ありがたや。
あとあれですね、少人数だと自分の音がバレやすい、というのがありますね。
これは後ろの方で隠れていたい人にとってはドキドキものでしょうが、しかしそれは芸術の世界においては本末転倒だと私は考えるのです。
芸術に身を置いている人間は、きっかけはなんにせよ、何かを表現したくてそこに存在するものだと思っています。音楽はもちろん、演劇、絵画など、芸術の分野に属するものは全てそうです。芸術は自己表明の場のはずなのです。それなのに後ろの方に隠れていたいとは矛盾もいいところだと私は思います。
個人的な話をすると、私が楽器を始めたきっかけは、友人がトランペットを吹いてる姿が羨ましくて、でした。
今もそうですが私は極度な負けず嫌いで、他人にできて自分にできないことがあるとくやしくてしょうがないのです。だから友人がトランペットを吹いているのを見て、私だって楽器くらい吹けるよ!って言いたかったんだと思います。
そんなきっかけだったからこそ、私が楽器を始めた小学生の頃はいつも「私の音を聞いて!」という気持ちで吹いていました。「私、今楽器吹いてるんだよ。こんなに頑張ってるんだよ。ねぇ聞いて。すごいでしょ?」これは誰かに強制された考えではなく、自分の中から沸き上がってくる衝動に似た「何か」です。しかしこの「何か」こそ芸術の根本だと思います。自分の存在を知らしめたい。努力を認めてもらいたい。その為の手段として楽器を手にするか、舞台の台本を手にするか、絵筆を手にするか。結局は表現の手段が違うだけで、芸術の根本は人の中にある「自己表明欲」みたいなものです。その衝動ありきで表現があるのです。
そうなると、芸術は「表現」である、ということになります。「表現」=「表に現す」ということです。つまり、表に出ないと意味がないに等しいのです。表に出ない芸術は自己満であり、人に見てもらえないので芸術だという評価すらもらえません。自分で書いた絵を表に出さず自分だけで楽しんで「私は芸術家です」と言ったところで誰にも理解されないのと一緒です。表に出て初めて意味を成すと言ってもいいのです。
この考えでいくと、合奏の時に自分の音がバレないようにバレないように、、、と吹いてる人は芸術の根本からは逸脱していることになります。その人が楽器を吹こうと思ったきっかけはなんであろうと、後ろの方で隠れているのは表現する場において表現を拒んでいることになります。これはおかしい。
ではなぜ後ろの方で隠れていたいと思うのか。それは「自信がない」が第1位の理由かと思います。
なぜ自信がないのか。まだ練習しきれてなくて上手く吹けない。いつもこの音が苦手。自分下手だし。音小さいって言われるしetc... 色々あるでしょう。
「じゃあできないからそれがバレないように後ろの方でコソコソしていよう。誰かが代わりにやってくれるだろう」
↑これです。こいつが犯人です。
これは甘えです。自分を表現する為の手段なのに手を抜くのは、自分の表現を蔑ろにすることに繋がります。これが1人で描いてる絵画の世界なら「お前手ぇ抜いてるだろ」と批判されるのは自分1人で済みますが、吹奏楽はチームプレーです。誰か1人が手を抜くと「あのパートの誰か手ぇ抜いてた」→「あの楽団手ぇ抜いてた」となり、みんなが批判の対象になりかねません。これはチームプレー特有の怖さですね。
「卒業しなかった試験は追いかけてくる」という言葉を先日耳にしました。
「辛いこと、嫌なこと、逃げ出したいことがあったとき、それを克服し乗り越えることができなければ、また同じことで辛い、嫌だ、逃げ出したいと思う」ということだそうです。
自分のできないことから目を背けていてはいつまでたっても進歩しません。しかもその進歩を拒んだことで周りに迷惑がかかる世界もあるのです。
できないことは恥ずかしいことではありません。最初から何でもできる奴なんかいないんですから。それよりも、できないことをそのままにしておくこと、できるようにする努力をしないことの方がよっぽど恥ずかしいと思います。練習方法が分からなかったら沢山アドバイスを求めればいい。自分で努力した結果、それが違っていたら誰か、指揮者やパートリーダーや年長者などが必ず軌道修正してくれるはずです。
あなたは「恥ずかしい人」になっていないか?
私は自分にも言い聞かせつつ、みんなにも考えてもらいたいと思うのです。
長いこと書いてしまいましたね。
あ、あくまでもこれは私の見解であって、この考えを強制するつもりはありませんよ。自分の中で消化して考えて、違うと思えば右から左に流してもらって結構です。
ただ、こういう考えもあるのよ、という話です。
NHK的に言うと「意見には個人差があります」ってやつですね。NHKで「今夜も生でさだまさし」って番組を深夜に不定期でやってるんですよ。歌手のさだまさしが番組に届いたはがきをひたすら読んでるだけの番組なんですが、なかなか面白いんですよ。さだまさしも結構言いたいこと言う人なんで、内容によってはNHK的に良しとしないものもあって、そういう時に「意見には個人差があります」って書いた手書きテロップが出るんですよねー。あの番組面白いですよ。
…話の軸が大幅にずれたぞ。
えーっと。
そもそも何の話だったっけ;
あぁそうそう、人数が少なかったって話だ;
人数が少ないからこそできること、分かること、気付くこと、向き合うべきこと。
今日の参加者は、参加できなかった人より色々なことを学べたのではないでしょうか。他の人より一歩リードですよ。
明日も合奏です。明日はきっと参加者が増えるでしょう。
明日は明日でまた違うものを学び、違うものに向き合うのでしょう。
今日はこの長ったらしい心理トークを書きたくて久し振りに出てきたじゅごんでした;理屈っぽいのか抽象的なのか分からんややこしい話を最後まで読んでいただいてありがとうございました(^^;)
明日はまた他の団員に書いてもらうよ!ではまたいつか!
まさかの土曜更新で読んでくれる人が少ないんじゃないかという不安にかられながら書いてます;
先週担当のTrpのリラックマお兄さん(笑)がちらっと書いてますが、実は先週から土曜にも合奏練習が入りました。本番が近いって感じですね。いや、「感じ」じゃなくて事実近い;本番まであと3週間ですねヤバいですね;(いつも本番前はヤバいって言ってるねじゅごんね;)
土曜は学校があったりお仕事があったり、日曜に比べると予定がつきづらく、今日は人数が少なかったです。10人はいたのかな?ってくらい。数年前の彩楽の日曜練習ってこんな状況結構あったよね。みんな参加率上がったよねーホント。
ですが少人数だからこそできることや分かることがあるので、参加者は実に有意義な時間になったのではないかと思います。
私もいつもの合奏だとあまりじっくり見てもらえず「これでいいのかな」と思うことが多いのですが、今日は他のパートとの合わせや音程、音の切り方など色々言ってもらえました。ありがたや。
あとあれですね、少人数だと自分の音がバレやすい、というのがありますね。
これは後ろの方で隠れていたい人にとってはドキドキものでしょうが、しかしそれは芸術の世界においては本末転倒だと私は考えるのです。
芸術に身を置いている人間は、きっかけはなんにせよ、何かを表現したくてそこに存在するものだと思っています。音楽はもちろん、演劇、絵画など、芸術の分野に属するものは全てそうです。芸術は自己表明の場のはずなのです。それなのに後ろの方に隠れていたいとは矛盾もいいところだと私は思います。
個人的な話をすると、私が楽器を始めたきっかけは、友人がトランペットを吹いてる姿が羨ましくて、でした。
今もそうですが私は極度な負けず嫌いで、他人にできて自分にできないことがあるとくやしくてしょうがないのです。だから友人がトランペットを吹いているのを見て、私だって楽器くらい吹けるよ!って言いたかったんだと思います。
そんなきっかけだったからこそ、私が楽器を始めた小学生の頃はいつも「私の音を聞いて!」という気持ちで吹いていました。「私、今楽器吹いてるんだよ。こんなに頑張ってるんだよ。ねぇ聞いて。すごいでしょ?」これは誰かに強制された考えではなく、自分の中から沸き上がってくる衝動に似た「何か」です。しかしこの「何か」こそ芸術の根本だと思います。自分の存在を知らしめたい。努力を認めてもらいたい。その為の手段として楽器を手にするか、舞台の台本を手にするか、絵筆を手にするか。結局は表現の手段が違うだけで、芸術の根本は人の中にある「自己表明欲」みたいなものです。その衝動ありきで表現があるのです。
そうなると、芸術は「表現」である、ということになります。「表現」=「表に現す」ということです。つまり、表に出ないと意味がないに等しいのです。表に出ない芸術は自己満であり、人に見てもらえないので芸術だという評価すらもらえません。自分で書いた絵を表に出さず自分だけで楽しんで「私は芸術家です」と言ったところで誰にも理解されないのと一緒です。表に出て初めて意味を成すと言ってもいいのです。
この考えでいくと、合奏の時に自分の音がバレないようにバレないように、、、と吹いてる人は芸術の根本からは逸脱していることになります。その人が楽器を吹こうと思ったきっかけはなんであろうと、後ろの方で隠れているのは表現する場において表現を拒んでいることになります。これはおかしい。
ではなぜ後ろの方で隠れていたいと思うのか。それは「自信がない」が第1位の理由かと思います。
なぜ自信がないのか。まだ練習しきれてなくて上手く吹けない。いつもこの音が苦手。自分下手だし。音小さいって言われるしetc... 色々あるでしょう。
「じゃあできないからそれがバレないように後ろの方でコソコソしていよう。誰かが代わりにやってくれるだろう」
↑これです。こいつが犯人です。
これは甘えです。自分を表現する為の手段なのに手を抜くのは、自分の表現を蔑ろにすることに繋がります。これが1人で描いてる絵画の世界なら「お前手ぇ抜いてるだろ」と批判されるのは自分1人で済みますが、吹奏楽はチームプレーです。誰か1人が手を抜くと「あのパートの誰か手ぇ抜いてた」→「あの楽団手ぇ抜いてた」となり、みんなが批判の対象になりかねません。これはチームプレー特有の怖さですね。
「卒業しなかった試験は追いかけてくる」という言葉を先日耳にしました。
「辛いこと、嫌なこと、逃げ出したいことがあったとき、それを克服し乗り越えることができなければ、また同じことで辛い、嫌だ、逃げ出したいと思う」ということだそうです。
自分のできないことから目を背けていてはいつまでたっても進歩しません。しかもその進歩を拒んだことで周りに迷惑がかかる世界もあるのです。
できないことは恥ずかしいことではありません。最初から何でもできる奴なんかいないんですから。それよりも、できないことをそのままにしておくこと、できるようにする努力をしないことの方がよっぽど恥ずかしいと思います。練習方法が分からなかったら沢山アドバイスを求めればいい。自分で努力した結果、それが違っていたら誰か、指揮者やパートリーダーや年長者などが必ず軌道修正してくれるはずです。
あなたは「恥ずかしい人」になっていないか?
私は自分にも言い聞かせつつ、みんなにも考えてもらいたいと思うのです。
長いこと書いてしまいましたね。
あ、あくまでもこれは私の見解であって、この考えを強制するつもりはありませんよ。自分の中で消化して考えて、違うと思えば右から左に流してもらって結構です。
ただ、こういう考えもあるのよ、という話です。
NHK的に言うと「意見には個人差があります」ってやつですね。NHKで「今夜も生でさだまさし」って番組を深夜に不定期でやってるんですよ。歌手のさだまさしが番組に届いたはがきをひたすら読んでるだけの番組なんですが、なかなか面白いんですよ。さだまさしも結構言いたいこと言う人なんで、内容によってはNHK的に良しとしないものもあって、そういう時に「意見には個人差があります」って書いた手書きテロップが出るんですよねー。あの番組面白いですよ。
…話の軸が大幅にずれたぞ。
えーっと。
そもそも何の話だったっけ;
あぁそうそう、人数が少なかったって話だ;
人数が少ないからこそできること、分かること、気付くこと、向き合うべきこと。
今日の参加者は、参加できなかった人より色々なことを学べたのではないでしょうか。他の人より一歩リードですよ。
明日も合奏です。明日はきっと参加者が増えるでしょう。
明日は明日でまた違うものを学び、違うものに向き合うのでしょう。
今日はこの長ったらしい心理トークを書きたくて久し振りに出てきたじゅごんでした;理屈っぽいのか抽象的なのか分からんややこしい話を最後まで読んでいただいてありがとうございました(^^;)
明日はまた他の団員に書いてもらうよ!ではまたいつか!
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